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全員が平等に幸せになれるわけじゃない。
そんなことはずっと昔に悟ってしまった世界の現実で、常日頃からと言わなくても自分でも理解しているつもりだった。
けれど、想っていた人が友人と仲睦まじく桜並木を歩いてゆく姿を見てもそんな現実と向かい合っていられるほど、椿はまだ大人ではなかった。
そして、そんな椿の姿を見てただじっとしていられるほどに、バロールもまた大人ではなかった。







椿とバロールは幼馴染だ。
年齢こそバロールの方が一つ上だが、隻眼という見た目と内向的な性格な彼と、おしとやかに見せかけてどこか勝気で男勝りな部分のある椿は、まるで姉と弟のように育ってきた。
いわゆるいじめられっこというやつだったバロールはいつも椿に庇われてばかりだったのだ。

「つばきちゃん」

「なあに、ばろくん」

「オレいつか、きっとつばきちゃんまもるね」

とある日、バロールが近所のガキ大将に殴られていたときに、駆けつけてきた椿が軽い怪我を負った時、彼は心に誓った。
この人はきっと自分が守って見せる、強くなって、誰からも傷つけられないように、と。

「へんなばろくん。わたしがいつだって、まもってあげるのに」

そう言って笑う椿の手を握りしめ、その時からバロールは彼女に涙を見せなくなった。いじめられても、椿に助けを求めなくなった。







それから十数年が経った。
時は巡り、バロールは高校二年、椿は高校一年生になり、話は冒頭へと遡る。
椿は以前バロールに用事があり彼の通う高校を訪れた際、クー・フーリンという偉丈夫に出会った。
その時に彼に恋をし、それから一年と少し、短いような長いような片思いを続けていた。
彼はどんな人なのか、どんな女性が好みなのかと、爛々としたきれいな瞳で語りかける椿に、バロールは内心で臓腑が焼けただれるような思いだった。
物心ついたときから淡い恋心を抱き続けていた相手が、自分ではない誰かを見ている。
その瞳を、その心を自分に向けてくれたらとどんなに願っても、それを言葉にできない。
夢でも見ているかのように、暇を見てはクーの元を訪れる彼女の姿に、バロールは自分の掌を握りしめるしかできなかった。
つらい日々だった。いっそ何もかもぶちまけてしまおうかとか、彼にはもう恋人がいるのだと嘘をついてしまおうかとか、いろいろなことを思った。
けれど幸せそうな椿の姿を見れば、そんなことはできなくて、今日は少し彼と話ができたと語る彼女に静かに相槌を打つしかない。
涙を流すことこそせずとも、それ以上に苦しい想いを抱えながらバロールは生きてきた。







それほどまでに想っている椿が、夕日も落ちてきた青葉の影に、わずかに残った桜の花咲く木の下で静かに泣いている。
ようやく彼と同じ学校に通うことができると喜んでいた矢先、クー・フーリンと出会うのと時を同じくして出会った友人であるモリガンがその恋を成就させたのだ。
椿は彼女を責めなかったし、妬みもしなかった。よかったですね、と微笑んで見せた。
バロールはいつだって彼女を見ていたから知っている、こうして椿が抱え込んだその悲しみをひとりでこぼしていることを。

「桜の木の下でね、いつかあの方と空を見上げてみたいんです」

年齢が上がるにつれ、椿はバロールを仇名では呼ばなくなったし、年上だからと敬語を使うようになった。
それでも、他の誰にも見せない幼い笑顔でそう言っていた。
厳格な家柄に育つ彼女は、きっと家でも弱音をこぼすところがないのだろう。
バロールはどうしようもない想いに掻き立てられる。自分がいるのに、と思ってしまう。
クー・フーリンのように自分は剣には秀でていない。けれど、だれよりあなたを想う気持ちは強いのだ、と伝えたい。
それなのにそれは言葉にならず、それどころかうまく距離を縮めることすらできなくなった。
けれど、今こうしてまたひとり泣いている彼女を放っておいて、いったい何から彼女を守るというのだろうか。
ぐ、と自身の唇を強く噛み締める。勇気を出すのは今しかないのだと、バロールは椿に向かって歩みを進めた。






「あ、の」

「!」

「桜、見よう」

「バロールさん?」

「こっち」

慌てて涙をぬぐうその手を取って、バロールは椿の歩幅に合わせて、それでも少し急いて校門を抜けた。
泣いている姿は見られたくないだろうと、なるべく彼女を人影から隠すように。
早く、もっと早くと、今までした遠回りの分を取り戻すようにたくさんの近道をしながら。
どこにいたのか、いつから見ていたのかと慌てて問う椿に答える余裕はなかった。






目的の丘が近づく。一本の大きな桜の木。

「ねえ、ねえ、バロールさんたら!」

すっかりいつもの様子に戻ったように見える椿は、こちらはいつもとまったく様子の違うバロールに驚いている。
それもそうだろう、小学校に上がるころにはもう彼の人見知りと恥ずかしがりは椿に対しても発揮されるようになっていて、そこに彼女は知らなくとも、恋心まで混ざっていたのだから。
それがいきなり手を掴んで引っ張り出されて、何も答えず桜の丘である。椿は困惑し、バロールの顔を下から伺っていた。

「……クーさん、じゃなく、て、ごめん」

「バロールさん……?」

「守れなく、て」

ふわり、と椿の不思議な色をした髪に桜の花弁がひとひら乗る。
そっとそれを取り、彼女に差し出せば、はっとしたように上を見上げた。
学校の桜並木の花はほとんど散ってしまっているのに、ここの桜の木はまだ満開の様相を呈していて、桃色の花びらが群青に染まり始めた空と夕日に煌めく雲に舞い踊っている。
あ、と椿が声を零すのと、その頬に涙が伝うのはほとんど同時だった。

「桜……ここ、まだ、咲いてたんですね」

ぽろぽろとこぼれる涙をぬぐうことも忘れて、椿が呟く。

「……私の言ったこと、あんな小さなこと、覚えていてくれたんですね」

ふわふわと香るのは桜のかおりなのか、夕日の射す桜の丘に立つにはあまりに小さい愛しい人のかおりなのか、バロールにはわからなかった。
わからなかったけれど、自分のしたことは間違いではなかったのだと、なんとなく思う。







しばらく二人で空を眺めた。
その間何もしゃべることはなくても、心地よい沈黙だった。

「私、きちんとわかろうとせずにいたんですね」

ごみごみとしたビル群に沈む夕日に目を細め、椿が声を発した。

「いつも私が……わたしが、ばろくんを守ってるつもりで」

ぐす、と椿が涙をぼろぼろとまた流し始める。

「わたしがずっと、守ってもらってたのに」

こくん、と小さく喉が鳴る。心臓が破裂しそうだ。けれど、彼女が泣いている。
ばろくん、と。助けを求めて。誰より守りたい人が、自分に助けを求めているのだ。

「憧れだったの。かっこいいなって。でも、モリガンさんといるのが、すごく素敵で」

その声はやがて嗚咽が混じり始め、よく聞き取れないものになっていく。

「強く……なりたかったのかな。ばろくん、まもらなきゃって、わたし、」

とうとう顔を覆って泣き始めた椿の肩に、そっと手をやる。
その手を取って、今がきっとあの日誓った約束を果たす時だ。

「椿ちゃん、好きだ」

「ばろ、くん」

「……好きです」

「……うん」

「守るから」

だから、そんな顔しないで、と頬をぬぐう。
桃色の花弁が張り付いたその顔は涙でくしゃくしゃで、それでもとても愛しくて、どうしようもない気持ちになってしまう。

「……守るから、そばにいさせて」

「わたしも、ばろくんにそばにいてほしい」

涙をこぼしながら笑う彼女を思わずきつく抱きしめる。
彼女からはいつも、花のかおりがする。あまくて、やわらかくて、心の落ち着くかおりが。
先ほどまであんなにも高鳴っていた心臓が、やがて穏やかに脈打つのがわかる。
守るからと言っても、こうして自分はまた椿に救われている。

「きっとわたし、ばろくんとじゃなきゃこんな気持ちにならないね」

腰のあたりに回された手にぎゅっと力が籠った。

「今はちゃんとわかるよ、ばろくん」

「……ん」

ようやく涙の引いたふんわりとした笑顔で見上げてくる椿の額に、そっと唇を落とす。
一瞬驚いた顔をした彼女だが、すぐにはにかんだほほえみに変わった。
自分が何か大変なことをしたような気がして顔に熱が昇るのがわかったが、とりあえず今は二人で桜の丘の上、星の瞬きはじめた空を見上げることに夢中になる。
とある春の、夜のことだった。






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